昭和四十五年九月八日 朝の御理解


 御理解第九十九節


 「無学で人が助けられぬと云う事はない。学問はあっても真が無ければ人は助からぬ。学者が身を食うと云う事がある。学問があっても難儀をして居る者がある。此方は無学でも皆おかげを受けて居る。」


 今日はこの学問と云う事を信心のいわば学問、いわば教学と言いますね。信心が詳しくなるとか、教学的に信心を分かるとか云う事もこれは学問が大事である様にやはり教学も大事であります。   けれどもその教学をしたばかりに人が助かるどころか自分自身も助からん、ね、教学をしたばかりにおかげが受けられない、いわゆるその学が身を食うと云うことになったんではつまりません。  ね、今日はそういう様なところを聞いて頂こうと思います。確かに先月の千足の共励会の中で平田会長が言われたといういわゆるこれが合楽の大坪教学だと云うような事を言われたということを聞きました。いわゆるあの願いと云うものは喜びを以って根とすると云うそのことを例を引いてまあそういう風に言われたと云うことですが、確かに私は合楽の御理解は教学だと思いますね。ですから、それがね、只分かっただけで例えばなかなか頭のいい人があったり、おっとりの人があって繰り返し繰り返し頂いても分からん人がある。 けれどもおかげを受けて居る。もう一を聞けば十を悟ると云ったように敏感に分かる人がある。分かるけれどもおかげを受けてない人がある。
 ですから、私は分からせて頂くと云うことは、それだけ信心が深くなる、それだけ信心が成長すると云うおかげを頂かなければですね、ほんとに学が身を食うことになると思いますよね。この辺のところを一つ私はおかげを頂いて行かなければいけません。
 もうこれは何十年前の話ですけれども、ある方この方はもう教学者です。  けれどもお話をしたことがあります。その方の話の中に、例えば御神米、いわゆるその御神米中におよねが入っていますね。あれはやはりお米である。御神紙はやはり紙である。ね、だから私共金光様の御信心させて頂く者はお米一粒でも神米と頂かなければならない。紙一枚でも御神紙として頂かなければならない。もう一事が万事にそういう頂き方が本当だと云うようなお話をなさいました。それで私があの次に立ってその事について只今言われた通りだけれどもね、只の紙とね御神米、只の紙でも御神紙として頂かなければならないと、だから御神紙は普通の紙とは違う。御神米は只のお米とは違う。と云う事を皆さん誤解され様にせないけませんよと話したことがあったんです。ね、その辺が分かるでしょうか。確かにね、教学を致しますとね、そういう事が実際そうですからそこだけで終わって仕舞うようですね。
 御神米いわゆるお米一粒普通の米でも御神米として頂かなければならない。おんなじように言うわけです。普通の紙一枚でも神様の御物という行き方からいきゃあいわば御神紙も同じだと。と、云うて御神紙のように大切にしなければならないと云うそこまでです。
 ところがね、いわゆる実際体験を通して分からせて頂いたものにはね、御神米といわゆるお米は違う。御神紙と紙は違うと云うことになるのです。ね、難しいでしょうが。            御神米と御の字が付いて居る。だから例えばこういう紙一枚でも御紙としてそれを頂けるようになったらそれは素晴らしいことでしょうねえ。御神米としての霊験を普通の紙でも現すことが出来るかも知れませんね。ところが教学者はそこまでは頂ききらずにね、御神紙とおんなじとか御神米とおんなじとかと云ったようなことを言うわけですね。理屈は確かにそうです。いわばもう既に教学が身を食うて居るわけです。ね、
 先日日田の綾部さんの遠い親戚に当たると云う方の息子さんが大変難渋な病気で困って居られる。それでそれを聞かれて綾部さんが是非その合楽にお参りをして出来たらその合楽で暫く修行したらどうかと切々と勧められるもんですから、親御さんもその気になられた。自分もその気になっとった。ところが急に行かんと言い出した。お母さんもやっぱそげん見知らん所へやっちゃ気の毒かと云う風に言われるようになった。そこで小倉からあれだけ約束しとったからお断りに行かなければいけないと言うてわざわざ綾部さんも一緒に断わりに見えた。話を聞かせて頂きましたらなかなかいわゆる教学者ですねえ、大体が真宗の浄土真宗の家に養子に行って居られる。随分教典も研究したと言われる。成長の家も随分長い間読ませて貰ったけど、成長の家はもう詰まらんことが分かったから止めた。孟子孔子の現された例えばああ云う難しい本も一応はこなした。と言うて論語から抜粋した言葉を私に言うて聞かされました。頭のよい方だと思いました。最近では創価学会からやかましゅう薦めに来るから、もう家は真宗で間に合うとると言うたけれども、あんまり来なさるから最近では創価学会になっとると云った様なことを言って居られます。ところがですね、いわばちっとも助かってござらん。いわゆる信心はもう御利益なんかて云うなんか思うても居らん、考えても居らん。という様に大体ね、教学するとそういう事になるんです。金光様の御信心でもそうです。ね、おかげなんか言うとおかしいと、ね。もう実に驚きますよ。もう最近あのうまあ金光教の教団の中でも教団の頭脳と言われるほどしの頭の素晴らしいきれいか方達ばかりがまあ社会問題なんかについての会合がある。それを話された事が全部お書物になって十日に送ってきます。四回でしたか送って来た。その中に、例えばお道の教師がね、教職をしておっても 職をして教会が細々立っていって居ると云うのであってもそれの方がほんとの場合がある。どんなに人がどんどん助かっていって御比礼が輝いとったっちゃそれは嘘の場合があると云うようなことを言うて居られます。ほんとにもう馬鹿の様に私に言わせると。 私共はやはり信心がそれだけのおかげの受けられる居合を持って居られるからいわゆる形に、金の形のように金だと思うのがおかげだと思うとります。のにそういう事をせんえんと話して居られますけれども、もうほんとにいっちょんぴんときません。その中に一人出尾教会の三宅先生が一生懸命それこそもうま一人で相手をしておられると云ったような感じで言うて居られますけれども、出尾の先生の仰る事なんかはあんまりもう相手にされて居られん様な感じがね、もう読みよってからそんな感じが致します。まあほんとに金光教もこりゃおかげの受けられん宗教になりだして行きよるあれを見て私は実際思いましたね。いわゆるそれこそ大変な教学を身につけた方達ばかりですけれども、学が身を食うて行きよる訳です。そこでならこれは皆さんの場合でもですね、云うなら合楽の話は教学だとまあ私自身もそう思って信じてます。ですから大変難しいことを私が願うのでしたらまあ表面は誰にでも分かる言葉を使って居りますけれども、その内容は非常に深いものだとこう思います。只そういう深いことが分かってもですね、分かっただけではどんなに理解力があるだけではおかげ受けられないと云うことですよ。ね、
 その前の九十八節に「心は神信心の定規じゃによってお伺いをする時にはとりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え」心は神信心の定規じゃ、この定規がねピタッと合わなければね、いわゆる落ち着いて静かに願うことが出来ません。自分の心がね、神様の心にピタッと合うような心の状態、心が清浄でありいわゆる信心の心である時なのです。ね、そういう心にならなければです、ね、静かに願うちゅうことは出来ません。只ポンポンと柏手して拝むだけのことでしょう。それこそ静かに静かにね、願うても願うても云うなら祈っても祈っても物足りない思いの様な有難ーい御祈念になってこない。
合楽でいわば信心が大変詳しくなる。そしてもしおかげを受けられんとするならどうも合楽教学を身につけたけれど、ね、あの教学が身を食うて居るようなこと。いわゆるおかげを教学が食うて居るようなことになって居ると悟らせて貰うて今一度もう一辺詳しゅうなって行きよるだけの自分じゃなかろうかと真剣に一つ分からせて貰うて本気で静かに願えれる信心を頂きたい。
 今月の焦点「全ての事を何事もね、有難うございますと受けれる自分になろう」と 、何事もこれはもう何時も終始泣こうごと私は言い続けて居ることなのですけれども、今月はそれを焦点にして信心の稽古をさして頂こうと云うことになって、その事だけに取り組ませて頂いたら、今までの有難うございますと受けておったそれのいわば程度の低かったこと、目の粗かったことに驚いております私は。皆様どうでしょうか。私は折角毎月毎月そうして信心の焦点と云うものが出来て、あの様にいわば感じるのですけども、あのうあれに私が書いた物をせん板刷りにして皆さんの手元に配ってございますでしょう。だから皆さんも  貼ってありますでしょう。あれも別に貼っておるだけじゃいかんとですよ。今月いよいよ焦点を置いて一つ本気でそれを極めて行こうと云うのですから。ね、どうでもそれをいわば信心は有難うならせて頂く稽古だとさえ極言して私は居ります。ですから何事も有難う頂かんならんことはもう分かりきって居ること。けれどもそれを尚且つ今月の焦点としてそれぞれに取り組ませて頂くことになったらです、目が粗かったことに驚いております。
 最近体が悪いですから、休ませて頂きます。それがこれは前から水を沢山頂きますからね、中に氷をね私毎日一杯づつ頂くんですよ。ところがね、皆さんも経験がありますでしょうけれども、氷を頂くと急に頂くからでしょうかね、必ず私頭痛が致します。どんこんされんごとこう押えんならんごと痛むんです。皆さんも経験があるでしょう。氷なんか食べて急に頭が痛くなるようなことが。だかすぐ一分か二分かで元になりますけれども、とても気分の悪いものですよね。皆さんも体験があるでしょう。それがもう必ず有るんです。それで私二、三日前ですね、頂きますという云う思いでは頂きよりますけどもね、こりゃ本気で何事もそれこそ有難う頂かせて頂くと云うことですから、こりゃほんとに有難く頂かにゃいかんと思うて本気で有難う頂かせて下さいと言うてお願いさせて頂いたら、おかげでもう二日間ですけれどもその願いをさせて頂くようになったらピタッと頭痛がするのが止まってしまった。せんごとなった。あのね、皆さんとにかくね、あのお願いしよりますと云うごとじゃいかんとですよ。やっぱほんとに願わなければ、真剣に願わなければ。ならお水一杯でも御飯一杯でも神様頂きますと言うて柏手して頂きよる、これはみんな頂きよりますでしょうが。ところがそれじゃいかんとです。ね、本気で頂きますと云う、いわゆる御祈念の内容がです、頂きますの中に込められていなければほんとのおかげになってこない。それどころではないね、そういう軽い頂き方をしますとね、神様がそれだけ骨を折りなさると云うことですよ。私はね、それが有難いと思うて神様にお礼申させて頂きよりました。ね、頂いたけど、は、昨日も頭が痛うなかったが今日もおかげで頭が痛まなかった。とその事をお礼申し上げて居りましたらね、もうお爺さんがお孫さんと思われる負ぶとには大きすぎるぐらいの大きな子供さんをね、おんぶして居られる訳です。ところがそのお爺さんの背中でね、こう踊った様にしてからあの居られるところを頂いた。だからそげなことしたら危なかが、しがみつかにゃこてとまあ言いよんなさる様な感じなんです。ね、だから私はそれをあのお知らせを頂いてから思いました。ね、例えば親におんぶすると云うてもです、只負われておる、只軽い負われ方、云うならば、あの踊って居ると云う人間があの人はちっと軽かと言うでしょうが、そういう様な事だと思いました。ね、只頂きまぁすと云うて軽う言うぐらいのことはですね、かえって頼まれた神様の方が困ってござる。あのそげなことじゃ危なかち言うてから言いよんなさる。だから真剣に頂きます、お願いします、有難く頂かせて下さいと云う祈りがいわば神様にしがみつく様な気持ちで例えば願うとですね、もう頭が痛いとが痛くない程しのおかげが頂かれる。私は昨日総代会の方にその事を繰り返し聞いて頂いて、もうこんなのですよと言うてお話したことでございますけどもね、あのう軽ぁるい例えば「頂きまぁす」と云う様なことにはいかんとです。もうこの位頂きますと云う気にならなければ。それは食物でもほんとの血肉にならん。ね、それももう胸いっぱいでもうお米一粒でも神様の御物と教学的には分かって来る。ね、だからそれは御神米と言うても良い御神紙と言うてもよいことが理屈の上では分かる。けれどもね、その一すくいの水一粒のお米でもです、ほんとに頂きますと云うところに初めて御の字が付くような、御神米のような御神紙として又御神酒又御神紙としての頂き方がそこにあるわけです。本気でその事を願わなければならないと云うこと。ね、
 今月の焦点、何事も有難く受けらせて頂けれる自分になること。だから例えば事柄だけの事では有りません、御事柄だけではありません。御物も御食物もですそういう有難く頂くことをです、今月はいよいよ本気で頂く稽古をしてご覧なさいませ、もう全然いうなら血肉になる度合が違う。しかもそういう本気での頂くことをする事がです、神様も楽であられると云うことが分かるでしょう。ね、しがみ付いた様な頂き方。神様にしがみつく、いわゆる落ち着いて静かに願えということ。ね、おいてあるものまで食べるといったことではなくて本気に静かに願って頂くと云うようなおかげを頂かにゃ。ね、そういう事に段々ならせられる時にいわば教学がものを云うてくるわけです。ね、教学が生きて来る訳です。教学してはいけないというのではありません。でも教学そのものが身を食うようなことになったら大変だということです。ね、おかげを頂く者は馬鹿のごたるという言い方をする人がある。いや実際に書いて有るそげな風に。しかも今教団の中のそれこそ頭脳と云われる程しの人達がそういう様な言い方をして居る。段々人が助かったり御比礼が立つような教会はあれはちっと間違っているというような言い方を平気でして居られる。そりゃ反省すりゃまあ間違いも沢山ありましょうけれども、やはり信心の姿が実際の姿が蔭になって付いて居るのですからね、より確かな私はおかげを受けて居られるのだけれども、そういう風には言われない、ね。今日ここでは学問、確かにもう大学なんかを出た人が信心になると強いですけれども、なかなか信心になりにくいのは学が身を喰うて居るからです。ね、それこそ論語読みの論語知らずと云うことを申しますけれども、ほんとに論語読みの論語知らずではあります。今日はそういう学問ではなくてここではもうみんなが頭が良かろうが悪かろうが学問の程度が高かろうが低かろうがおんなじ意味に於てです、合楽の場合はここではもう本気にそのまま大きな教学でいいと私は思います。だからそういう難しい教学を身につけていって居ってです、詳しゅうなって参るだけではです、教学が身を喰うような結果になります。只知って居る、覚えて居ると云うことだけではいけない。またはそれがかえって災いをする様なです、例えば今日申しましたね、例えば氷一杯頂くでもです、本気で頂きます、頂かせて下さいという気持ちでお願いをする気持ちで頂かせて頂いたら、云うなら頭に来るいわば嫌な頭痛がですせんで済む程のおかげが頂かれる。これは一事が万事にそうだと云うことをね、一つ分かって頂いてです、今月の全ての事を有難うございますと頂いて行けれる自分になろうと云うことを、事柄だけではない、御物だけではない、ね、例えばなら御食物もですね、只御神訓唱えて頂きますと頂くだじゃいかん。それはねかえって神様に重荷をかける、かえってね困られるというような感じ。もっと真剣に頼むなら頼まんと、真剣にしがみついて頼むような思いがですね、私はそれが段々身に付いていったら一事が万事に有難いおかげが頂けると思いますね。どうぞ。